地声寸言『川柳』
大分前から川柳に興味を持ち、川柳の関係の本を集めている。神田の古本屋でその店の在庫となっている川柳系の本を全部買ったこともある。といって六、七十冊ぐらいであろうか。
川柳柳多留など川柳を集めた本も二、三セット重複したりしている。
ずっと通読するようなものではないし、気の向いた時に、いい加減にページを開けて、読んでいる。
川柳も古事来歴を踏まえて作られたものもあって、そういうものは、元の事実を知らないと、何のことやらチンプンカンであったりする。
今、手元に興津要の「江戸川柳報策」という一九八年に出版された本をみている。
「女房をちょっと見直す松の内」
「這へば立て立てば歩めの親心」
このへんだと解説は要らない。
「夜桜へ巣をかけて待つ女郎蜘」
まだ玉屋だとぬかすわと鍵屋いい」
このへんはまだわかる。
「子は五丁親は紙帳を釣って寝る」
これは説明が要るだろう。娘は吉原の五丁町に売られ、親は蚊帳が買えなくて紙帳を釣って寝る、という気に毒な家族のことを読んでいる。
この紙帳というのは、紙を貼り合わせて作った蚊帳で、風通しが悪いために、ところどころに風窓を切って薄い紗などを貼っていた、という。
冬は防寒用にもなったというので、蚊は避けることはできても、その蒸し暑さは相当なものだったろう。
蚊屋売りが「もえぎのかやー」というように、のんびりと長く叫びながら売りに来たのに対して、紙帳売りは「しちようしちょう」と、短かく叫びながら歩いた。
紙帳の行商人は、享和(一八〇一〜〇四)の頃まで、夏になるとじゅばんを肌ぬき、上の単物の袖は腰に巻き、袴を短く上げて三尺手拭でしめ、白もめんの手甲、股引きをつけて、菅笠をかぶるという姿で、四角の台に縄紐を付け、そのうえに紙帳をのせて、「紙帳、紙帳と売り歩いた、という。
紙帳の現物を見たことはないが、たしか「奥に細道」にも出て来たような気がするので、当時としては、そう珍しいものではなかったと思う。
もっとも蚊屋自体が全く見かけないようになった。子供のころは、夏は毎晩釣って寝たし、疊み難い代物だという印象が残っている。
そう言えば、大東亜戦争中私のいた中支の漢口地区も蚊屋をつっていたように思っている。
定斎売りというのもあった。中世の末期、豊臣氏の時代に、堺の薬種問屋村田定斎が、中国、明の薬法を伝えて作製した煎じ薬で、夏の諸病に効能を発揮したが、夏の炎天下、笠もかぶらず売り歩く姿は、薬の効能のよい宣伝ともなっていた。そこで、
「定斎屋は色の黒いが自慢なり」
こんな風に書いていると、本を引き写しになってしまうので、これで止めるが、川柳には、なかなか味わいの多い句が少くない。
「荷が呼んで歩く虫売り定斎売り」
夏の万能薬(定斎)の行商人は、眞?の金具を打った薬簟笥の引出しの鐶をかたかた鳴らして無言で歩いたが、虫売りもまた、虫の鳴き声を売り声代りにして無言で歩いていた。
川柳子はここで次の句が出るのである。
「定斎屋が来たかと思う新(あら)世帯」
「当分は昼のたんすの鐶がなり」
切りがないので、このへんで止めるが、川柳は面白い。
「中条へ五月おいて同じ顔」
中條とは徳川期の妊娠中絶をする医者のこと。中条流
「泣き泣きもよい方を取る形見分け」
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相沢英之 (平成25年9月1日) |
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