地声寸言『エネルギー予算について(予算あれこれ)』
昭和三十年代であったが、将来我が国のエネルギー政策をどうするか、について議論が湧き起っていた。
当時、わが国のGNP(その頃はGDPではなくGNPが広く使われていた)が一%増えるごとに石油が二%増える、といわれた。そして三十年後には石油資源は涸渇するというものであった。
代替エネルギーは何にすべきか。
水力については、治水、農業用、上水道用、工業用などとともに発電用が対象となり、大規模多目的ダムの建設が主張された。
当時は勿論石炭火力の発電が発電の中心であったが、国内の炭鉱はその採算性、公害問題などからして下火となり、新規の採鉱も行なわれず、地盤沈下などの鉱害対策に追われていた。公害復旧事業団は主として石炭鉱害対策の実施に追われていて、その経費に充てるため輸入原油課税が行なわれていたが、批判も多かった。
水力発電の立地開発もかなり進められ、風力、太陽光、潮流等による発電も研究が進められた。
インドネシアやスマトラの石油資源開発をめぐって田中清玄などが顔を出していたのは四十年代に入ってからか。
村上孝太郎局長は通産主計官であったこともあってか、石油開発には熱心で、昭和四十四年に中小企業振興事業団と同時に石油開発公団の創設も認めることとした。当時、主計局次長として通産省を私が担当していた。
村上局長は予算と言うものは、相手の要求を切って切って切りまくれ、骨は俺が拾ってやるという、いわば武闘派であったが、時代の流れに対する感覚は鈍くなく、一省で二つの特殊法人を同時に認めたことなどは流石だと思った。
代替エネルギー源として地熱発電も日本は火山国であって、随所に立地可能と思われているのに、これはも少し後であるが、環境庁が発電施設の設置は自然の景観を害すること大なりとして、立地も規模もいろいろと制限を加えるので、思うように計画を進めることができない。もっとも、発電のため汲み上げた水に重金属などを含もこともあって、その処理が問題となっていた。二次冷却水を農業用の温室に利用することも研究されたが、必ずしも十分ではなかったと思う。
議員となってから原田君などと地熱議連を立ち上げたりしたが、思うような成果を上げられなかったように思う。
(平成23年3月31日)
相沢英之
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