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活動報告
地声寸言『初めての外国』

 今から55年前、昭和30年の夏、私は初めて外国出張を命じられた。それまでも外国にいたことはある。昭和19年の5月、陸軍主計将校の私は北支方面軍司令部経理部に転任を命じられて以来、総軍司令部(南京)、武漢防衛軍司令部(漢口)、歩兵第12旅団司令部(咸寧)、第34軍司令部(漢口)勤務と約1年2ヶ月中国に、それから第34軍司令部が北朝鮮に転進したのに伴って咸興へ、そこで終戦となる。内地へ送還と思っていたらシベリア鉄道を23日間貨車で運ばれてキズネル駅で下車。酷寒の雪の中を4日間100キロを歩いてボルガ河の支流カマ河の畔、エラブガの収容所。そこで2年有余、カザンでの2ヶ月を経て再びシベリア鉄道を23日間、ウラジオストックから舞鶴に上陸したのが昭和23年の8月14日。実にまる3ヵ年の戦後の抑留生活であった。外国には都合4年3ヶ月も暮らしたことになるが、並みの外国生活ではない。
 帰還して直ぐ大蔵省に復帰したが、昭和24年の秋からは主計局勤務となり、出張を命じられた時は総務課伴任企画係担当の主計官であった。
 当時、主計局を内閣に移せというような声が挙がっていたこともあって、主として米、英、独、仏の予算編成制度を調査するようにと2ヶ月間の出張を命じられたのである。
 米国の予算局、英、独、仏の大蔵省を歴訪して担当官からいろいろ予算編成制度に関する話を聞いて来た。それを取り纏めて上司に報告をしたが、その報告書を「欧米各国の予算編成制度」なるタイトルで「財政」という雜誌に連載した。
 米国予算局が各省の予算要求額についてシーリング(枠)とターゲット・フィギュアーズ(目標額)の制度を設けていることを紹介した。後にわが国でもシーリングの制度を設けることになったが、その際参考になったことと思っている。もっとも、米国のこの制度は、シーリングにしてもターゲット・フィギュアーズにしても各省各機関、又は、事項ごとに金額を設定するのであって、わが国のシーリングの制度のように原則として各省庁共通で前年度に対し何%増とか、減とかいう一律のものではない。この制度を導入するならば、米国のようにシーリング、又は、ターゲット・フィギュアーズを設定してはどうか、という議論もあったが、それでは概算要求を各省庁が出す前に査定しなければならないし、又、概算要求が出て来たところで査定をするという、いわば二重手間になって事務的に過重負担となるという反対論が強く、結局一率増減方式となったのである。もっとも、後にそれに縛られないで、例外を設けたり、特別枠を設けたりするようななことも行われて来たので、必ずしも厳密な意味で一律にはなっていないとも言える。
 ともあれ、ここでは、各国の予算編成制度についてではなく、その出張を通じて感じたことをいくつか述べてみたい。
 62日間の出張のうち、ワシントンが10日間、ロンドンが17日間、ボンが10日間、パリが10日間で、あとは他の国をできるだけ回ることにした。
 当時はまだ日本人の旅行者の数も少なく、又、本省課長クラスで日当・宿泊料として認められている外貨は1日15ドルであった。幸い、出張先で外務省の在外公館に何くれとなく御世話をいただいたが、やはり切り詰めた枠の中での旅行なので、何かと窮屈ではあった。
 当時は航空機もジェット機はなく、大きくてDC6であったから、米国へも直行便はなかった。62日間で歩いた都市を列記してみる。
 ウェーキ島、ホノルル、サンフランシスコ、ロスアンジェルス、ワシントン、ボストン、バルティモア、ニューヨーク、ロンドン、エディンバラ、オックスフォード、ケンブリッジ、ストラトフォード、ブライトン、ブリュッセル、ボン、コブレンツ、トリーア、ケルン、シュツットガルト、ハイデルベルク、フランクフルト・アムマイン、ジュネーブ、ローマ、アテネ、カイロ、バンコック、香港となるが、先に述べた4都市以外は短い滞在であった。
 仕事のことは別としていくつかの思い出を書いてみる。
 最初は何と言ってもお金のことである。1ドル360円の時代であったから1日15ドルで5400円となる。日本にいれば結構使い出はあったが、外国ではそうは行かない。
 先ず、ホノルルに着いた時、ハワイアン・ヴィレッジというホテルのコテージに入れられた。総領事館が手配をしてくれたが、1泊15ドルであるという。大へんなところに来たものだと思った。3LDKとかでかなりゆったりとした一戸建ての部屋で泊まり心地は良かったが、これでは飯も食えない。
 その晩は総領事の公邸で御馳走になって助かりもし、嬉しかったが、先が思いやられてしまった。
 しかし、サンフランシスコでは、1泊3ドル50セントのホテルで、これなら何とかなると思ったが、その以後米国内のホテルもヨーロッパでのホテルも大抵3〜4ドル程度であった。
 ワシントンでは大使館近くのホテルをとってくれたが、ウェイターは殆んど黒人で、黒人のウェイターのホテルは大体安いのだと教わった。それでもホテルで食事をすると高くつくので、朝は近所のドラッグストアで食べたが、ジュース、トースト、ミルク、コーヒーで1ドルぐらいに収まったし、量は日本の店より遥かに多く、若い私にも余るくらいであった。晝、夜は外のレストランで2ドルぐらいのステーキなど。大きくて、余りおいしくはなかったが、当事の日本での食事に比べれば、まぁまぁの味であった。
 パリでは大使館近くのホテル・ド・パシーという小こじんまりのしたホテルであったが、英語をしゃべる従業員は昼間1人いるだけで、あとはフランス語しか通じない。字引き片手に何とか用を足していた。
 外国では言葉が問題だが、現在ほどでないにしても英語が通じるところが多かったので、まあ町を歩いたり、食事や買物をするのは何とかなったが、フランスなどでは英語が通じない場合も多かったし、知っていても使いたがらなかったようだ。
 タクシーは一般に高いので、出来るだけバスや汽車を使った。ロンドンからエディンバラへ走る急行列車はなかなかよかったし、ドイツではボンからシュツットガルトへ行く汽車の中で隣に座った女子大生と話をするようになり、一緒に食堂車で食事をしたりした。パリからヴェルサイユへの観光バスではウィーンから来たという弁護士夫人と知り合って1日中おしゃべりをした。主人は忙しいので、時々独りで小旅行をするのだと話していた。
 観光バスはなかなか手軽で短時間ながら、あちこち案内してくれる。パリ・ラ・ヌイという夜の観光バスはリドやアバッシュダンス、シャンソンと案内をしてくれて、最後は残った私1人をホテルに届けてくれたが、朝の3時を回っていた。
 米国のホテルで1つ困ったことは、日本から履いて行った靴がキューキュー鳴ることであった。湿度の差ということであったが、広間を歩く時など鳴る靴の音で座っている人達が顔をしかめるように見えてすごく気を使ったことを覚えている。
 私は、今ではねっからの和食党になっているが、その頃は何日和食から離れていても平気で、行った先々の土地の食べ物とアルコールで満足していた。その中でも印象に残っているのは、あの何でもまずいと言われているイギリスで食べたスモークト・サーモンであったか。パリではその辺の小さなレストランに飛び込んで、辞書片手に余り高くないものを注文し、ワインも安いものを飲んでいたが、どこでもおいしかった。オペラ座の周辺の中華料理店ではラーメンでも食べられると聞いたが、寄るチャンスはなかった。
 ヨーロッパはどこでも景色が美しいと思ったが、やはりスイスは一番でグリュンデル・ヴァルトの小さいホテルに泊って、翌日はモンブランに登山電車で登った。グリュンデル・ヴァルトの駅で降りたら雨であったが、予め連絡してあったので、ホテルから傘を持ってボーイが迎えに来ていた。ホテルの朝食は小じんまりした食堂でとった。品数は少なかったが、客をもてなす暖かさがどこか滲んでいた。流石観光の国だなと思った。
 アテネへは、アクロポリスのパルテノンを一眼見たくて1泊した。一頃プラトンの哲学に凝っていてどうしても外遊の機会にアテネに寄りたかったのである。唯今アテネには日本人は3人しかいないという日本の公使が偶然私の高校の先輩であったが、2人でぶどう棚の下で4本も空けたワインは一寸普通と変わってはいたが、忘れ難い味であった。
 アテネからは、止した方がいいと忠告されたが厳戒命下のカイロへ飛んだことも記憶に生々しい。夜となると光をおとして町中が暗くなっていた。大使が開いてくれた歓迎会で館員引揚げの話を夫人が出し、大使が一生懸命反対していたことを思い出す。夕景に砂漠の中に見るピラミッドやスフィンクスの姿とともに、これ又忘れ難い思い出である。
 往事茫々。若いだけに脚に委せて休みなく動いてみたが、ふり返れば皆懐かしい。読者諸賢は如何に思われるか。


相沢英之(2010/10/09)