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活動報告
地声寸言『野球との仲』

 野球との仲は長い。いつか書いてみたいと思っていた。少々長くなるかもしれないが、お許しいただきたい。
 昭和の初め、私は小学校へ入学した。横浜の根岸小学校である。海岸が近く、小学校は創立1200年という根岸神社の隣りに建っていた。校庭に大きな楠木が一本。校庭ではもっぱら三角ベースのゴムマリ野球をやっていた。小学校間の軟式野球の試合も行われていて、市営横浜球場へも根岸小学校チームの応援に行ったこともある。私の小、中、高、大学と一貫しての同級あるいは同期となった田沢がピッチャーをしていて、伸びのある球を投げていた。勝敗は覚えていない。
 私は、むしろ海派で、小学校へ入る前から根岸の海岸で泳いでいた。その頃は5月の終り頃、まだ冷たい海に入り、7、8月は毎日のように泳ぎ、9月も過ぎて、10月一杯、明治節の11月3日近くまで海に入ったこともあるように覚えている。
 夏休みは毎年磯子海岸で新聞社の主催する臨海学校に1ヶ月通っていた。仲間と伝馬船を漕いで釣りに出かけたし、高校へ入った頃からヨットを始めるようになった。  そんなことで、野球を自分でやるようになったのは、少し遅い方であったかもしれない。
 小学校の頃、自宅の裏に少々の空地があり、子供仲間で暇さえあれば野球をやっていたが、その頃は、どっちかと言えば、見物する方であった。野球の道具が子供にはなかなか買って貰えなかったせいでもあるだろう。近所の工場のオーナーの息子が親から買って貰った一チーム分の野球道具を持っていた。その子は野球が下手であったが、その子を入れないとプレーができないので、大事にされていた。グローブ、ミットにバット。軟球だったし、キャッチャーマスクはなかったようだ。
 小学校の4、5年は全国高校野球のラジオ放送を毎日聞いていた。ラジオも各家庭に行き渡っていない頃であったが、私は、父の買ってくれたラジオに野球放送となると、しがみつくように聴いていた。
 有名な明石・中京の優勝決定戦も聴いた。24回まで0対0。25回目に中京が1点を入れて勝ったが、5時間余にわたる死闘をスコアブックに0を連ねて書き入れながら聴いていた。空前で多分絶後の名勝負であった。
 当時は又、六大学の野球リーグ戦が華やかな時代であった。あのリーグ戦のお蔭ですっかり有名になり、入学志望者の増加によって野球以外でも優れた人材を集めるようになって、大学としての地位を大いに高めた学校もあった。
 それは、ともかくとして、私も六大学の野球選手の名前を殆ど空んじるようになった。とくに好きであった慶応チームの選手の名前は今でも思い出す。宮武、腰本、山下、本郷、水原、三原、楠見、など。
 水原の林檎事件のことも覚えている。あの頃から慶応は銀座、早稲田は新宿がホームグラウンドみたいになっていて、早慶戦のあとなどそれぞれのホームグランドには学生の姿で溢れかえっていた。私は、銀座によく行ったが、あちこちのバーやクラブに慶応の先輩が陣どっていて、慶応の学生だったらどこでも先輩の勘定で飲めるとあって、私ども慶応でないものまで、帽子を脱いで入って行けばオーオーと歓迎してくれた。よき時代であった。
 プロ野球の発足は昭和11年の東京巨人軍などの創立からであったが、その前に米国のメジャーリーグの選手が来日し、日米野球が東京などで開かれた。昭和9年であった。  横浜球場で開かれた一戦を観に行ったが、1時のプレーボールであるというのに9時頃から球場は入場者で溢れていた。ゲームも始まる頃は座れなくて、皆立ち見になって、それも満員電車の中のような混みようであった。トイレに行ったら、戻れなくなるので、長いこと苦しい我慢をしたことも忘れられない。
 当時あこがれのベーブ・ルース、ゲーリッグ、ゲリンジャーなどの名選手はシャトル・キャッチボールをやってみせたり球場を沸かせたが、それよりも何よりも、狭い球場ではあったが、米国チームは11本のホームランを打ったのは流石と唸らせた。ベーブ・ルースは3本をいとも軽々と打った。回転するレコードの文字を読みとることができるという眼は本当にたしかなのだなと思った。もっとも、日本側もつられるように3本のホームランを打った。
 日本のプロ野球の発足はこの米国チームの来日が刺激になったに違いないと思う。東京巨人軍の選手は六大学の選手が多かったように思うが、私は、その時以来巨人のファンである。後年巨人・大鵬・卵焼きといって、バカにされるようになったが、こればかりは、お宗旨のようなもので、変えるわけにはゆかない。  私が自分で野球を熱心に始めるようになったのは、中学校の終り頃からであった。その頃毎日勉強に疲れると庭に出て運動をしたが、狭い庭とて充分な場所も道具もない。それで始めたのが、ピッチング練習であった。縁台を横倒しにして、その真中にベース板を描き、それを目がけてボールを投げ、返る球を素早くグローブで拾い上げる動作の繰り返しであった。短い距離であったが、投げているうちに、狙うところにズバリ投げられるようになった。目標を段々小さくして行く。それへピシャリと投げられるようにする。  これは、私の野球技術の向上に随分役に立ったと思う。事実、一高へ入学し、組選(クラス対抗)の野球に狩り出され、おそるおそるマウンドを踏むようになってから、この練習が物を言うようになってきた。ピッチャーとして草野球ではかなり通用するような腕になってきたのである。
 野球の本を買って来て、研究もした。下手投げもできるようになったが、何よりも球の握り方をあれこれやってみた。直球、カーブ、ドロップ(当時はおちる球をそう呼んでいた)の他、シュートを得意とするようになった。私は、親指を折り曲げて、曲げた指で球を持つようにし、外側に振って投げることでシュート回転が強く出るようにした。それが癖で直球もシュート回転をするようになった。
 一年生の時は、組選の野球ではかなり活躍をした、といって、中学の時、レギュラーの選手をしたものがいないような仲間の野球でしかないが。
 もっとも、当時、私は、陸上競技部に入っていて毎日厳しい練習をしていたが、競技部の在り方に疑問をもった何人かの同僚と退部し、寮も一般部屋に移り、運動にクラスメイトとの軟式テニスが主になった。
 駒場の全寮3年の生活を終え、東大に入ってから横浜の自宅から通学するようになって、運動と遠ざかるようになったが、入学当初は各高校対抗の野球大会が御殿山のグランドで開かれた際、一高の投手として登板したことを思い出すが、その程度である。
 半年繰り上げ卒業で大学と別れて、大蔵省に入省したが、直ぐ陸軍に入営。以来、主計将校となり漢口の第34軍司令部調弁課に勤務するようになったが、ここで野球と再会するようになった。
 調弁将は街中のもとイギリス系の銀行を占拠し、専ら対日還送物資の調達に当っていたが、裏に狭いがグランドがあって、野球を始めることになった。中野という科長がとても野球が熱心で、相手を見つけては、その狭いグランドで試合をするようになった。ライト方面がとくに狭く、高い壁が隣りの建物との間を隔していた。その壁を越えて隣りの土地に入ったらホームランというルールをしたので、私たちに専らライトを狙って打ち上げた。
 いろいろなチームと試合をしたが、軍連絡部と戦った時、相手は往年の慶応、神宮のピッチャー三宅であって、軟式の球も速すぎて大へんであった。そこで、対策を立て、バットを短く握ってチョコンとライトを狙って当てることにした。球が速いだけにホームランの連発で首尾よく勝ったことができた。  漢口の夏は湿気が多く、とんでもなく暑い。まして野球のあとは、身体が燃えるようになった。まずい上海第13軍貨物廠製のサカエビールでも野球のあとはおいしかった。  われわれの軍司令部は終戦間際に北朝に移駐して8月15日の終戦。ソ連に送られて20年の12月末ウラルを越えてタタアル自治共和国の地方小都市・エラブガの収容所に入れられた。北緯55度。暫らくは食料も不足し、酷寒の地で運動どころの騒ぎではなかった。
 収容所生活も2年目になった頃、六大学野球を始めようか、という話が出て来た。私は、当時ラーゲルの日本側の本部で給与主任をしていた。収容所は将校が大部分で約5千人いたが、大学出の幹部候補生上がりの将校が圧倒的に多かった。六大学のOBはそれぞれチームを編成するに充分だけいる。
 そこで、ラーゲルの六大学リーグ戦を始めることになって、早慶戦でにぎにぎしく開幕したが、発疹チックの発生で始めて数試合で、中止せざるをえなかった。
 23年夏舞鶴に上陸、大蔵省に復帰したが、当時は庁舎の裏に狭いがグランドがあって、ソフトボールの試合は頻繁に行っていた。近くの今の迎賓宿の庭もグランドとして度々使った。各局対抗の野球試合もあって、私の属していた主計局は人数も多く、なかなかうまい選手もいて、絶えず他局に勝っていた。私は、そのチームのピッチャーを度々務めた。
 それとは別に学士採用者の野球会というのがあって、毎年各局対抗の野球試合を行っていた。戦前は高文合格で入省した者、戦後は国家公務員上級職の試験を合格して入省した者がメンバーであって、野球をやるということで先輩を含めて毎年大会を開いていた。
 各局対抗といっても、グランドの都合もあって4チームに編成。するとどの局とどの局を組み合わせるのかが問題となる。大会の前に各局代表者でその組み合わせの協議が行われたが、侃侃諤諤、時に果てしない議論を真剣に繰り広げていた。
 大会の当日、4チームによる準決勝戦、決勝戦のほか、先輩と当年入省者、つまり1年生との試合も行われ、大平正芳氏なども常連。有力メンバーが多すぎて、時に後輩は人選で一汗かいたものだ。
 この会は家族も揃って出席し、大へんにぎやかな会となっていたが、いつの頃からか開かれなくなった。
 私が現役の頃は、大へん熱心な先輩、仲間が多く、どしゃ降りの雨の中でも試合を止めなかったこともあった。一球一球タオルで拭いては投げる。滑ってとんでもない球になる。それでも止めなかった。私は、鳩山などと交替で投手を務めていた。鳩山は東京高校でショートのレギュラーをしていたと聞いたが、ゴルフ同様動作はスマートだった。  省内の野球では、各局幹部と財研(大蔵省詰めの記者の会)との試合も毎年開かれていた。記者の中にかつての名選手もいたりしたが、大抵は似たり、よったりの腕前。しかし、記者のチームの方が断然若いだけに、大抵役所側が負けていた。試合の後の会食では、大きなカップになみなみと注がれた酒やビールを廻し飲みということになり、ヨイショ、ヨイショ、拍手とともに飲まされたことを思い出す。あの頃は、良く飲んだ。
 主計局には野球の好きなものが多かった。大村主計官の下で文部の主査をしていた頃、主計官チームで他と野球をすることになった。主計官の下は厚生係もあったので、文部省、厚生省の各課を相手として試合を行うことになった。相手を探すのは苦労はなかったが、試合をする場所を確保することが問題であった。木場の方へ行ったり、府中の刑務所のグランドを借りることもあった。あそこは、塀が高くで、球が外へ飛び出さないで、いいと喜んだりした。
 それはそれとして、試合の後が大へんで、勤務評定が行われた。そこは主計局で計数はお目のもの、各人ごとに入りと出がある。入りはヒット・四球・盗塁、10円、二塁打20円、三塁打30円、ホームラン50円、出は三振・エラー、マイナス30円だったか。それを早速計算して、表にし、各人に配布、次の試合に備えるという仕掛けであった。  その後、私が農林主計官になった時、又、このような野球の会を再開することになった。
 主計局は概算要求が毎年8月31日に各省から提出される。翌日から説明聴取が始まり、年末まで超多忙。正月に入っても予算書の国会提出という骨の折れる仕事がある。一字の間違いも許されない。3月末に予算が成立すれば一段落だが、それから各委員会での質疑に引っぱり出されることが多い。ほっと息をつけるようになるのは、国会の終る6月。
 したがって、休みは7、8の2ヶ月しかない。
 5、6月はまぁいくらか暇として、この4ヶ月に専ら野球をして、体力をつけ、又、野球をすることによって、チームワークを良くしようと思ったのである。
 野球場の確保ができれば、相手をみつけて、週3回。しかも、私は、原則として勤務時間外をやらないことにした。今だったら叱られるかもしれないが、1年の中にそのくらいの息抜きを体力増強を兼ねてしたって差支えないという判断であった。野球は午後する。当番を2人ほど残して、20数名、全員参加であった。勝率八割以上であった。もっとも弱そうなところを選んで、声をかけていた。目算が違って、林野庁と試合をした時、相手の投手は甲子園組とあって、とても球の速さについて行けない。幸い捕手が下手で、なかなかその球を受けきれないで、ミスをする。そこで作戦を立て、ワンバウンドのような悪い球がきたら、バットを振る。捕手はとれない、振り逃げで一塁セーフ。このパターンでやって、結局勝ったこともあった。
 9月の仕事が始まるまで30数試合をやったこともある。チーム・ワークを固めるのには本当に投に立った、と今でも思っている。
 大蔵省を卒業して、鳥取で選挙に出るようになってからは、野球との関係はやや縁遠くなった。しかし、若い人達と接触を深めるにはスポーツが1番であると思い、軟式野球、ソフトボール、バレーボールの会を再々開くようにした。
 もう私自身はピッチャーは無理であったが、時にピンチヒッターになって、いいヒットを打って、驚かしたりした。鳥取は東京と違って場所はとり易かったが、若い者が増えず、何となく野球の試合も開かれないようになった。その他は少年野球に顔を出して、短い訓示をしたりした。
 野球を自らプレーをすることは、今は
ない。ごくたまに、街中の練習場を覗いてみたりしたが、投げては100キロも出ず、打ってはピッチングマシーンから繰り出す球になかなかついて行けず、苦笑いをするばかりで、諦めている。
 野球を見物する方は、役所にいる時も後楽園に時々、時に度々行ったが、選挙をするようになってからは、甲子園が多い。地元(鳥取県)から代表が出る時は、必ず応援に行った。
 選手の泊る宿は大体きまっている。そこへ大阪で倉庫業をやっている友人に頼んで、肉を届ける、当日は貴賓室で前の試合を見物する。高野連の牧野会長とも顔馴染みになった。松井氏などにもあった。そこで軽い食事をいただき、アルプス・スタンドにおりて、地元校の応援団と一緒に声をからすという段取りになっていた。
 しかし、私が気に喰わないのは、とくに鳥取勢は戦い方が消極的なことである。0ゲームの進行中にノーアウトで一塁に出る。これをバントで送るのはいいが、ワンアウトでもバントをさせる。二塁に進んでも、ヒットの確率は3分の1以下。先ず点にならない。ワンアウトで二塁なら、二打者が6割ぐらいの確率で生還を期待してもいいが。
 それに大差で負けている時に、ファーストに走者が出ると、バントをさせる。勝負が問題なのに。1点でもとりたいと、という気持ちはわかるが、0点でも1点とっても、負けは負け、同じではないか。何を考えているのかと思う。走者を溜めて勝ちに行く意気込みが大切なのではないか。
 近頃はワールド・カップの盛り上がりもあったサッカーが大へんな人気を集めているが、野球の方が遥かに勝敗も複雑な要素があって奥深いスポーツのように思える。野球との仲は相変わらず離れ難いことを記してペンを措く。

相沢英之