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活動報告
地声寸言『四月四日は何か』

 日本では四の字が忌み嫌われる。死を思わせるからであろう。病院などには四階がなかったり、四の数字の入っている病室がなかったりする。四四と続くとなお嫌がる人もいる。欧米人が十三の数字を忌むようなものであるが、時代の推移とともにかつぎ屋が減ってくるのか、この頃は余り四の字を気にしない人が増えて来ているし、逆に「四四四四」を「よしよし」と読んで、車のナンバーなどに選ぶ人もいるようだ。ちなみに、私は十七という数字を大切にしている。ラッキーナンバーとも思っている。そのいわれば、長くなるので省略するが、私の使っている車の終りの数字は十七が多かった。この頃は、車も電話も「一二三四」を使っている。バカではないか、とけなす人もいるが、覚えやすくて気に入っている。
 ところで、四月四日には何があったか。例によって三六五日事典(社会思想社編)「今日はどんな日か」を利用させていただく。

「征台の役」
 征台の役とも言う。明治国家最初の海外出兵である。明治元年(一八七一年)琉球船が台湾に漂着し、乗組員五四名が殺害されるという事件があり、次いで明治六年(一八七六年)には備中山田県(今の岡山県)の船員が台湾で掠奪暴行を受けるという事件があったが、日清間の交渉はなかなか進まなかった。そのうち、琉球民の殺害について清国から生藩(せいばん)の地は化外との言質を得た。当時征韓論争を終えて大久保利通、大隈重信らは士族の不満を外にそらすため明治七年(一八七四年)二月間罪出兵を閣議決定した。ところが、英・米などが自国人船舶参加拒絶という中立政策をとったため中止を決めたが、蕃地事務都督西郷従道以下兵三六五八名は長崎を進発、五月台湾南部の社寮に上陸、進攻、牡丹社などの蕃社をすべて平定した。清国は強く抗議、北京での談判も難航したが、駐清イギリス公使の斡旋で和議が成立、清国は征台を保民義挙と認め、賞金五〇万両(テール)(難民撫恤一〇万両、出兵補償費四〇万両)を支払い、十二月台湾から撤兵することになり、宣戦発令順序を用意した日清開戦の危機は回避された。この間日本側の戦死十二人、病死五六一人であった。

「NATO創設」
 鉄のカーテン、冷たい戦争という言葉が急速に広まった一九四七年には、ソ連、東欧諸国、フランス、イタリアの共産党により情報局コミンフォルムが設けられた。さらに翌年二月チェコがクーデターによりソ連圏に入ると、イギリス、フランス、ベネルックス三ヵ国が西欧連合条約を結んで防衛態勢をとる。
 この日ワシントンで調印された北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization)はこの五国条約を母胎に、アメリカ、カナダ、イタリア、ノルウェー、デンマーク、ポルトガル、アイスランドの十二ヵ国を参加国としたが、のちにギリシャ、トルコ、西ドイツが加わる。連合軍を持つこの反共的機構は、スペイン、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、ブルガリア、エストニア、スロベニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、スロバキア、アルバニア、クロアチア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが参加している。
 この他、四月四日は、沖縄県の設置が決った日である。明治十二年(一八七九年)。
「サマータイムの廃止」
 昭和二十二年から実施されたサマータイムが廃止された。昭和二十七年(一九五二年)。もっともサマータイムについては、諸外国にならって再びわが国でも実施するようにという運動はあるが、実現していない。

「山本五十六」
 明治二十一年の生れた日である。戦後六十有余年にしてなお、彼の名を聞くことが少なくない。対米開戦について当初反対であったことは知られている。日本の軍部では、よその国を見て来ているだけに開戦に反対ないし消極的な海軍々人は少なくなかった。山本もその一人であったという。しかし、開戦と決定してからは真珠湾攻撃も成功させたが、終始短期決戦を主張していたという。
 いろいろな逸話を遺しているが、彼を慕う数人の女性のことが書かれた小説も読んだし、又、彼の女性の一人であったという新橋のもと芸妓さんから彼の手紙を見せて貰ったことがある。筆まめでもあったようだ。彼のバクチの才能を記した「横顔の提督」という一文を雑誌で読んだこともある。彼はルーレットの天才で、マカオのカジノで大負けに負けていた日本人が彼が指し示す数字にかけて忽ちにして莫大な額のチップを手にしたという話であった。事実かどうかはわからないが、何となくあってもいいような話ではないか。
 北条時宗は弘長三年(一二八四年)この日に亡くなった。鎌倉の執権として元のフビライの通交要求を拒絶し異国警固番役を課して危機に備え、文永十一年(一二七四年)と弘安四年(一二八一年)の二度の襲来を撃退した(文永・弘安の役)。禅宗に帰依し、鎌倉円覚寺を建立したという。
 なお、時頼は、謡曲鉢木にあらわれる。上野国の武士佐野源左衛門常世(つねよ)は雪に迷った旅僧を泊め、秘蔵の鉢植えの梅、松、桜を焚いてもてなし、一族が所領を奪われ薪にも事欠く身だが、いざ鎌倉のときには一番に駆けつける覚悟を語った。旅僧は実は身をやつして諸国の民政を探る前執権の最明寺入道(北条)時頼であった。鎌倉に戻った時頼は軍勢を召集し、粗末な具足で馳せ参じた常世をたたえ、本領安堵のうえに、鉢の木の礼に松竹梅の名にちなむ三つの荘園を与えたという。
「川柳に」
「あとがよい・鉢の木おもひ切ったので」
「佐野の馬戸塚の坂で二度転び」
 もっとも私の祖先は、もともと三浦半島に居を構え三浦一族に属していたため北条氏に所領を奪われて現在地(横浜港北区高田)に隠遁したという。
 歴史は流転する。読者諸賢如何に思われるか。
(相沢英之)