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活動報告
地声寸言『国民劇場の昔』

 昔話になって相済まむとは思う、後日のために置いておきたい一事である。

 大東亜戦の戦況が厳しくなるにつれて、国力を挙げて軍事生産を取り組まざるをえなくなり、「欲しがりません勝つまでは」の合言葉で、国民は耐乏生活に我慢せざるをえなかった。
 真珠湾攻撃を期として日米相闘うの図となり、戦線が急速に拡大するとともに、補給ルートの確保が難しくなってきた。何と言っても圧倒的に強大な米海空軍の力の前に日本と南方の資源を結ぶ海上ルートは寸断され、あたら海上兵力を喪失し、民間商船の大部分も海の藻屑と化するにいたって大陸縦貫の物資郵送ルートを確保するための大作戦が展開されることになったが、これも失敗に終わりつつあった。
 新協劇団が第五列と関係ありとされ、解散を命じられるなど、軍部の圧力は演劇などの文化活動にも及んだ。
 新協劇団が始めて歌舞伎座で開演するというので、友人と観に行ったのは昭和十五年の暮れ。歌舞伎がハネてから五、六日間の芝居の最終日、大晦日ではなかったか。
 藤村の「夜明け前」であった。主人公は滝沢修で、祝言の夏の夜、木曽節を合唱している役者の皆さんが鳥肌だっているのが見えるようだった。あの時の木曽節は今でも耳の底に遺っているようである。 後年、木曽福島で名物のソバを頂戴し、繰り返し木曽節を聞いた時、期せずして歌舞伎座の一夜を思い出した。
 時は流れて終戦。連合国軍の駐留とともに戦後の日本が始まった。
 戦中抑えられていた芸術、文化を追い求める力が湧いて来たのは当然であって、次々に演劇団も誕生してきた。
 昭和二十七年、私が主計局の文部担当の主査をしている頃、国民劇場を作ろうという声がどこからともなく高くなって来た。
 本当は国立劇場の設立が念願であったが遍迫していた財政事情の本では言うべくして至難であることは明らかであった。
 そこで、駐留軍の占領から開放された神田の一ツ橋大学の講堂を活用して「国民劇場」という名称で芝居を始めようということになり、多勢の委員が選ばれた。菅原卓、千田里也、久保田万太郎、花柳章太郎、杉村春子などが入っており、私もその委員の一人として名を連ねることとなった。
 当時の記録が残っていれば、もっと詳しく書けるのにと、それが残念であるが、何回かの会合では、国立劇場の創設を希望する声が圧倒的に高かったのは当然であったが、差し当たりは、一ツ橋劇場を利用しての発足ということになった。
 米軍から返還された一ツ橋の講堂は当然修復が必要であったが、その際、ステージを舞台として使えるように奥行きを深くしたり、照明器具を整備したり、改修にしては、かなりな多額の予算を盛り込むことにしたのである。
 かくして国民劇場第一回の演目は民芸の「セールスマンの死」で、大入満員とあって、大入袋をもらった。中には五円玉一枚が入っていた。そこで、十数年ぶりに滝沢修の元気な舞台姿にまみえた。
 国民劇場は狭いながらも多くの観客を迎えて続けられていたが、やはり国立劇場設立の願望が年を追うにつれて高まって来た。
 当時はまだ文化庁ではなく文化財保護委員会であって、演劇に関しては、古典的な芸術の維持発展に力を入れていたので、国民劇場についても歌舞伎を中心とする舞台芸能の殿堂をという声が高く、西欧のオペラなど上演を願う人達と対立していた。
 そこで、当時文部担当の主計官をしていた私から二つの劇場を二階建てにして作れないのか、という提案をした。広いスパンを必要とするものを重ねて作ることは、構造上問題がありはいないかと懸念しが、それより、宮城を見下ろすような高い建物を作ることは反対だという横槍が入って、この二重構造劇場の案はダメになった。
 高さの問題は、近くに最高裁の建物を作る際にも問題となったと記憶している。
 国立劇場を作る時、この劇場専属の俳優を養成することも併せ企画実行されたが、家を何よりも大事にしていく歌舞伎の伝統になかで、早してうまく俳優が育って行くものがどうかは、当初から懸念されたところである。
 さて、古典芸能の劇場は一応出来上がったが、オペラなど西欧の劇を演じられる劇場をという声が強くなり、これも誕生し、又、能舞台も作られるようになった。結構なことであるが、充分その目的とする機能を早しているか、いつの日か検証をしてみたいと思っているが、読者諸賢如何に思われるか。
(相沢英之)