相沢英之公式サイト
活動報告
地声寸言『読み過ぎ』

 三月二〇日の東京新聞「こちら特報部」が「角福戦争時代の宿縁」という大見出しに続いて「父・赳夫が“借り”就任なお秘策」という見出しで懸案の武藤敏郎元大蔵事務次官の日銀総裁実現に福田総理がこだわった由縁を記している。
 それは、昭和四十九年六月、当時大蔵事務次官であった私の後任を誰にするか、が問題となった際、福田首相の父赳夫大蔵大臣は「“省の秩序”に従い橋口収主計局長を推していたが、一方政敵の田中角栄首相は高木文雄主税局長を後押しし、」「表面上は静かな『角福代理戦争』が起こった。
 「マスコミも人事の慣例通り、主計局長の橋口氏が次官昇格とみていた。ところが、角栄首相のご威光のおかげか高木氏が事務次官のイスに座り、“敗れた”橋口氏は国土庁(現・国土交通省)の初代事務次官に泣く泣く転じた。
 その橋口氏の娘婿というのが武藤氏だった。ことの経緯から「福田首相は父親が涙をのませた橋口氏の娘婿である武藤氏に、今度は自分が涙をのませたくはないでしょう。心情的に武藤日銀総裁を実現したかっただろう」。当時をよく知る与党議員からは、そんな解説が漏れてくるのだ。今また、角栄氏の“秘蔵っ子”だった小沢一郎代表の民主党に不同意を突き付けられたのも因縁めいている。」
 確かに、当時もこの結着はマスコミにも採り上げられていろいろな記事にもなっていたが、私に言わせれば、この東京新聞の記事はいささか記者の「読み過ぎ」ではないか、と思う。担当記者の電話インタビューに答えた私の言葉も紹介されているものの、文章が舌足らずで、私のしゃべったことの真意をよく伝えていないので、後日のため、敢て少々詳しく当時のいきさつを説明することにした。
 昭和四十八年十一月愛知揆一大蔵大臣急逝の後を受けて、角福大戦争の敵役福田赳夫氏が大蔵大臣を引き受ける際、いわゆる狂乱物価を取り鎭める方策として、公共事業の抑制(前年度なみに)、消費者米価及び国鉄運賃引上げ時期の延期を条件としたが、さらに、田中首相からは大蔵省のことは一切自分に委せるという一札を取っていた。
 従って、大蔵省の人事にも口を挟み難い情勢であった。四十八年末の予算編成の際、田中首相の強い要請で決定していた所得税二兆円の減税も物価対策の面から福田大臣が反対である旨を田中首相に報告すると、首相は「何とかならんかなァ」といった口調で、とても福田大臣に指示するといったようなものではなかったが、この点は、「角さんがそんなにこだわるなら、まァいいか」という福田大臣の一言で田中首相の顔を立てるという一幕があった。
 大蔵事務次官の私の後任についてはすんなりにいかなかった。前から高木君は田中首相に近いとは言われていたが、それは、彼が主計局にも長く、とくに農林主計官もやっていたので、政界との繋りが割と深かったせいではなかったかと思う。
 福田大臣は、私に大蔵省の人事については凡て君に委すが、次官を誰にするかについては相談してくれ、という話であった。
 そこで、あれは四十九年の初め、田中首相から私に参議院議員の選挙に出ないかという打診があった頃(結局断ったが)、大蔵大臣室に呼ばれた私に後任はどうするか、という御質問であった。
 あれこれ應答しているうちに、「君はどう思う」と聞かれた。そこで、私は、チョンボをした。
 「主計局長で次官にならなかった人はないですからね」。大臣、「そうでもないよ」とブスッと一言。
 ハッと気がついたのは、この目の前の福田さんが主計局長の時、いわゆる昭電事件で疑われて局長を辞任(結局は嫌疑が晴れて無罪となったが)次官になれなかったことであった。駟も舌に及ばすとはこのことであった。
 ところで、「角さんはどうなんだ」と続いての質問。そこで、「何なら総理に会ってきましょうか」。「そうしてくれ」。
 田中首相は、私に「福田さんはどう考えている」という質問。例の一札があるから、これもハッキリとは言い難いらしかったが、言外には高木君の名前があった。
 福田大臣に報告すると、アッサリ「ぢゃ、高木にするか」。
 さァ、そこで、橋口君の処遇が問題になった。
 田中首相は、四十七年の夏首相就任の際、お求めに応じて私が書き出した新政策五つのトップ、「国土庁」(私の提案は国土総合開発庁)の設置が頭にあって、あの新設の国土庁の事務次官にしたらいいということになったが、さて、国土庁の設置法がなかなか国会で成立しない。
 そこで、田中首相は、私の眼の前で、内田に電話をと言う。経済企画庁長官である。首相は、橋口を企画庁に次官にしてやってくれと例のダミ声、内田大臣は、何だか言っていたようであったが、直ぐ引き受けた。このポストは当時まで代々通産省出身者が就任する習わしであった。大蔵省からは出たことがなかった。
 私は、これで一つポストが増えたな、と腹の中で喜んでいた。
 しかし、その後国土庁の設置が認められてスタートすることになったので、結局、高木君が大蔵省、橋口君が国土庁の事務次官にそれぞれおさまることになった。
 確かに、大蔵育ちの人間からみれば、大蔵事務次官の方が嬉しいとは思うが、橋口君も新しい役所の創設の御苦労はあったにしても、初代事務次官の栄は享受したのではないか。
 父・赳夫氏の“借り”を橋口君の娘婿武藤氏の日銀総裁就任でお返しするというような思いが現福田首相にあったのだろうか。読み過ぎではないかと思う。
 何も主計局育ちが次官適任者だと言う積りはないが、高木君は根っからの予算屋育ちで、橋口君は金融、現財の育ちであったから、主計畑が次官になるという実質的な流れは変らなかったのではないか。  新聞記者もいろいろ推理を働かすものであるな、と思うが、読者諸賢如何に思われるか。
(相沢英之)