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活動報告
大蔵週報 地声寸言『人事庁は無理』

 私は、このコラムで以前にも人事庁の構想は結局失敗するだろうと書いた。今でもその考え方は変らない。が、一旦消えたと思った人事庁の設置が又ぞろ福田内閣で決定したように傳えられているので、敢てふた度テーマに採り上げることにした。一体、何故人事庁を設置しなければならないのか。各省庁(以下略して各省という)が入省志望者の中からそれぞれ採用することに何の弊害があるのか。
 各省が毎年採用する職員の数は臨時のアルバイトなどを除くと、約一万三千人である。職種、学歴、年令などさまざまであるが、よもやこのぼうだいな数の職員の採用を一手に引き受けるようなことはあるまい。人事庁提案者の意中にあるのは、恐らく今までのいわゆるキャリアーではなかろうか。
 もしそうなら、キャリアー制度の廃止を主張する人達が何故キャリアーを一般の職員と区別して取り扱うような組織を創ろうとするのだろうか。まず疑問である。
 次に、敢てキャリアー云々という表現は措いて、人事庁の対象を現にある「一級職の国家公務員の採用配置」と観念して考えよう。
 そもそも国家公務員を志望する学生達は、一体どこの省でもいいなどと考える人達はいるだろうか。ある人は国の予算の仕事に取り組みたくて財務省を志望し、ある人は産業政策に携わりたくて経産省を志望し、ある人は外交の舞台での活躍を夢みて外務省を志望し、或は、又、どこかの大臣のような軍事オタクが防衛省を志望するというように、例え国の行政分野は様々異っても、それぞれ自分の今後の人生を懸ける働らき場所を求めてそれぞれの省を志望するのではないか。
 農民のために、農政に打ち込もうと思っている者に防衛省が採用するといってもハイと行くだろうか。子供の教育に一生を捧げようと思っている者に銀行相手に金融庁で働らけといって承知するだろうか。頭数が揃えばいい、合えばいいという問題ではない。質の問題、中味の問題なのである。
 又、百歩譲って、公務員志望者の中には考え方が極めて弾力的で、どこでもいい、国の行政の面で働らければいいと思う人があったとしても、それぞれがどの省庁が適性か、ということを誰が判断するのだろうか。神様が決めるのではない。人間が決めるのである。
 自分達がもともと志望していなかった省を割り当てられた場合は假りに入省庁するとしても、心から働らく気が起きるだろうか。野球選手のトレードが時に本人の意思や希望と関係なく決定されることがあるようだが、どこへ行っても野球のプレーは一緒で、まだ我慢できるかもしれない。それでも、チームのカラー、人間関係などがあって、断ることもあるだろうが、それにしても、そこは、そもそも仕事の中味が違う各省の役人になるのと大きな差異があろう。
 從って結局は各省の人事担当者が裏か表かに出て、役人志望者と個別に話し合うことになるのではないか。いわば見合いの場を人事庁が提供するというのであれば、それも役人志望者の視界を拡げる点もあってその分は有益かもしれないが、あとは、各省がそれぞれの志望者と話し合って決めた結果を單に登録するためだけの機関となって了うのではないか。
 も一つ。各省がOBの就職先の面倒を見るという慣習は官民の癒着を招く原因であるという。そうかもしれない。しかし、人事庁はそんなOBの再就職先の面倒まで見てくれるのだろうか。とても、そうとは考えられない。天下りはいけないという。では問う。定年で辞めた人が共済年金だけでみじめな思いなしで暮していけるだろうか。もっと年金でも増額してやれればいいが、そうもならない。第二の就職先が、子供の面倒を見るためにもどうしても必要だという人はどうすればいいのか。
 役人の天下りは絶対に悪だが、民間はいいのか。銀行や大会社を見て見給え。天下りのないところがあるだろうか。好んでしていなくても、仕方がないから、そうなっているし、相互に利益を享受できるから続いているのではないか。
 役人の天下りについても、役人の知識と経験を買う民間が、迎え入れることすらも悪いことなのだろうか。国家的にみても人材の活用はいいことでもあり、必要でもないのか。
 人事庁がそういう面での役割りを果すとは、とても期待できない、ムリではないか。読者諸賢如何に思われるか。
(相沢英之)