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活動報告
大蔵週報 地声寸言『塩は欠かせない』

 塩は人間にとって極めて大切なものである。塩がなくては生きられない。
 昭和十九年夏から中支漢口の第三十四軍司令部経理部の主計將校であった私は暮の三十日に北京へ出張を命じられた。中支は塩に恵まれない。北支の青島の海塩、山西の岩塩を運ばなければならないが、在支米軍の爆撃と浮流機雷で鉄道も船も輸送がままならなくなった。ついに砂糖よりも塩の方が値が高くなった。砂糖は嘗めなくても死にはしないが、塩は絶対に必要である。そこで、当時、経理部調弁科で輸送も担当していた私が北支からの塩の輸送促進のために第四野鉄司令部などのある北京に出張を命じられたのである。
 一万トンの船まで遡上する漢口は揚子江中流の物資の集散地であった。ガソリンの代用に單式蒸溜で作ったアルコールを使わざるをえなかった状態で、人力の輸送もバカにならなかった。時には四〇度も越え、しかも猛烈に高い湿度の武漢地区で人力で塩を運んだことがある。あの六、七十キロもある重い塩の麻袋を背中に担いで一日四十キロもの田舎道を上半身裸で歩く苦力たちの姿を思い出す。苦力たちは塩一斤を日当として貰っていたが、それを町で売れば大へんいい実入りになると喜んでいた。
 塩はそれ程大事なものかと初めて知る思いであった。
 ところで「塩」とは何ぞや。わかり切ったと思われることだが、次に「語源辞典」(講談社)から引用してみる。
【塩《しお》】
五味のうちの一つで、あらゆる味の基調をなす、塩化ナトリウムを主成分とする調味料。人間に不可欠なミネラルである。語源を考えるのが難しい語であるが、日本の製塩方法から考えて、海水を意味する潮(シホ・ウシホ)と関係づけるのが妥当と思われる。日本で古く行われた海水を土器に入れて煮沸する方法、海藻に海水をかけて乾燥させたものを焼き(『万葉集』などの「藻塩焼く」という表現がそれである)、水に溶かして上澄み液を煮詰める方法のいずれも潮から塩を製造している。潮にシホ・ウシホの訓があり、同じく塩にも、シホのほかにウシホの訓(『日本書紀古訓』に見える)があることからすると、潮から得られる塩も、潮と同じものと認識し、同じ呼び方をしていたと考えられる。ただ、潮・塩をシホ・ウシホと呼ぶ由来は残念ながら明らかにしえない。
 漢字「塩《えん》(旧字は鹽)」は人がつくったシオを意味し、塩分そのもの、天然の岩塩を意味するのは「鹵《ろ》」である。製塩事情から明らかなように、日本ではもっぱら「塩」が用いられる。
 また、「日本民俗大辞典」(吉川弘文館)によれば、
 「しお、塩 塩化ナトリウムを主成分とした塩辛い味の物質。必須栄養素であるとともに、浄めに用いるなど、日本人の精神生活に欠くことのできない物質でもある。古代日本では、石塩・戎塩(えびすしお)・白塩・堅塩・黒塩・舂塩・破塩・熬塩(いりしお・煎塩・木塩・鹹塩(からしお)・辛塩・藻塩などの名称があり、塊状のものから粉状、液状のものまでさまざまな形態の塩があったと考えられる。近世になると、壺に入った焼塩が食卓塩として流通するようになり、特に堺の壺塩は有名であった。毎日、尿や汗に混じって排出されるので、大人で最低一〇―一五cの塩を摂取する必要がある。東北地方は積雪時の副食物として塩蔵品を盛んに食べたため、今でも塩の消費量が多い。食生活の変化のために塩の消費量は低下しているが、現在でも日本人は塩の摂取量が多い。日本では岩塩は採れず、塩泉から生産したわずかな例を別にすると、主に海水から塩を生産してきた。海水から九七%の水分を除去する必要があり、製塩には手間がかかった。そのため、塩は入手しにくい貴重品であった。日本人は、古くから塩を神聖な物質と考えており、神への供物として必ず塩を供えている。また、塩には不浄を払う力があると考えていた。祭りの場や祭具、神棚などを浄めるのに塩が用いられ、相撲の土俵・闘牛場・住まい・囲炉裏・竈・井戸などの浄めにも使用される。葬式から戻った時、家に入る前に塩を撒く民俗は現在も盛んに行われているし、毎朝の掃除の後に入り口に盛り塩をする商家も今なお残っている。」
 塩について、他に手持ちの辞典を繙いてみたが、余りにも記述が多すぎるので、引用は止めにしたが、塩を含む言葉が如何に多いかを改めて知らされる思いであった。
 戦前から大蔵省には専売局が置かれ、長官が任命されていた。塩の他にたばこ、樟脳が国の専売となり、製造から販売まで厳しくコントロールしていた。主として財政専売と称して国の収入を得る目的であったが、無論、国民生活にとっての必需物資であったからである。
 専売局は戦後、専売公社となり、日本たばこ産業株式会社(JT)となり、いち早く樟脳が外れ、塩も専売ではなくなったが、製造販売についての関係団体はいくつもあり、その一つ塩工業会の会長を後藤田正晴氏に頼まれて私が引き受け、今日に至っている。中支以来の塩との縁が、何かと繋っているな、と思っている。
 国内での製塩は天日製塩から眞空蒸留釜の時代を経て今は四社、六工場で専らイオン交換(樹脂)膜を使って行なわれているが、さらに精度の高い、コスト引き下げにも役立つ膜を見出すべく、国の補助も受けて、目下試験研究を重ねている。
 戦前、私どもが子供の頃、国定教科書には瀬戸内の広い塩田で砂に海水をかけ、天日で乾かして作った濃い塩水を釜で煮詰めるという、昔ながらの製塩事業が紹介されていた。
 というと、昔の汐汲みの踊りを思い出す。日本国語大辞典によれば、「歌舞伎所作事」(中略)「三世坂東三津五郎の七変化舞踊「七枚続花の姿絵(しちまいつづきはなのすがたえ)」の一つ。文化八年(一八一一年)江戸市村座初演。能「松風」によった曲で、海女(あま)の松風が在原行平を慕い、形見の烏帽子(えぼし)狩衣(かりぎぬ)を着て汐汲みの振りをする。現在は長唄だけが残る名曲(以下略)。」
 上杉謙信が宿敵武田信玄に塩を送った話は有名である。甲州は山国なので、塩は北条氏に仰いでいたが、北条氏康が塩の移出を禁止したため、甲州の国人が苦しんでいると聞いた謙信が信玄に塩を送ったという。美談とされている。それで川柳五つほど。
 「後光のように大見世で塩をまき」
 「なぜ塩をまいたとろじで大口舌」
 「煮えきらぬ中だに甲斐に塩を入れ」(粥にかける)、「やき塩は信玄きつい奢りなり」、「甲州は塩も菩薩の数に入れ」。
 赤穂は昔も製塩が盛んで良質の塩を生産し、五万石の懐もかなり豊かであったと言われていた。その塩の作り方を教えよという吉良上野介の頼みを浅野内匠守が断ったことが、吉良が浅野を苛めることになった原因で、世話になるお礼に鰹節二本しか進呈しなかったせいではないという話もある。吉良庄も当時塩を産していたが、余りいい塩でなかったというのは本当らしい。もっとも、吉良上野介はご当地では土地改良事業などに精を出し、領民にも喜ばれていた名君であったということを聞いている。嘗て出張のついでに吉良家の墓地にお參りしたが、上野介の分だけ歴代の墓の中で一段と小さく見劣りしていたように記憶しているが、間違いだったろうか。
 現在、国内における塩の消費量は約九百万トンのうち工業塩が約八〇%を占め、いわば主力であるが、この稿は主として食用の塩についてのいわば落書き帳としたが、読者諸賢如何に。
(相沢英之)