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活動報告
大蔵週報 平成20年2月15日(金) 地声寸言『降る雪や』

 「降る雪や明治は遠くなりにけり」中村草田男の名句である。この原稿を書いている朝珍らしく霏霏として雪が舞っていた。葉の落とした庭の木の枝に何故か鳥が十羽ほどとまっていた。
 東京に雪を見ることが少なくなって来たのは、やはり地球温暖化の証拠であろうか。それでも白銀の世界というといろいろ汚いものを覆い隠して綺麗なものである。
 戦後ソ連に三年抑留された身にとって雪は決していい思い出とはならない。北緯五十五度、戦前、岡田嘉子が良吉とともに雪の中を越えたという南北樺太の境界線が北緯五十度であるから、それよりかなり北による。
 ソ連の季節は冬と夏であって、春と秋は本当に短い。九月の末には雪がチラついたのではなかったか。冬のさ中は午後三時には日が沈み、朝は十一時頃まで暗い。太陽は地の果をすっと短い孤を描いて沈む。雪は三メートルも積る。交通機関は橇となる。雪は踏み固められたところは氷のように固くなる、子供達はその雪道をスケートで滑っている。
 それにしてもソ連の人達は寒さに強い。女性はシューバの下は薄い夏衣みたいで、平気である。
 それにしても、暗く、長い冬が明けた春の喜びは想像以上である。学生の頃、トルストイの復活にシベリアの春の訪れを実に克明に語っている文章があった。草も木も一せいに葉を伸ばし、小川がせせらぎ、小鳥が囀る。あの文章が本当だなとまざまざと思い出したのはソ連に抑留された翌年の春であった。五月、木の葉が芽吹き、一晩で何センチも伸びて行くように思えた。
 冬は戦車も渡れるほど厚く氷ったボルガ河の支流カマ河の氷を破砕するために四発の重爆撃機か爆弾投下をする。上流からの雪解け水が河岸を越えて溢水するので、それを防ぐためである。大きな国はやることが違うなと眺めていた私達にとっては嬉しい時節で、軈て両輪の川船が白い姿を水に映して遡上してくれば、われわれのダモイ(帰国)の時が来ると信じていたからである。それにしても三度の冬は長かった。
 昭和二十年の十二月二十七日、シベリア鉄道二十三日間の貨物列車での輸送の終りに停車させられたのはキズネルという寒駅であった。そこから約百キロの雪道を四日で歩かなければならなかった。粉雪はさらさらとして顔にも容赦なく吹きつけてくる。眉も真白になる。一面の粉雪で道が全く見えなくなる。前の人の背中を見失わないようにただ黙々と歩く。その行軍から一寸離れたところを狼が走っている。
 途中風車小屋が幾つもあった。粉でも碾くためであろうか、今は止って、大きな黒い怪鳥が羽根を拡げるような姿を空中に曝している。歩いていると何だが同じところをぐるぐる回っているような錯覚がおきる。あゝ、これだな、雪の山中で道に迷った挙句に凍死するのは、と思った。もう歩けないと言って、道端に倒れ込む仲間がいる。雪の中の眠りは心地よいそうだが死に繋がる。が、起こしても起きない。もう、このまゝにしてくれと言う。何をバカなことを言うなと、顔を叩いて起して歩かせる。そんなことを繰り返しているうちに、こちらの叩く力も尽きてくる。粉雪は風に舞う。置いて行くしかない。
 後に死の行軍と誰ともなく言うようになった。亡くなった人は数えるほどだったと思うが、凍傷で手足の指を失った人は何人もいた。凍傷にかかったら暖めてはダメで藁でも何でも根気よく、一時間も摩擦し、血の気の戻るのを待つしかない。凍傷にかかった指は腐るので、切り離すしかない。指を失った人がじっと両手を眺めて涙ぐんでいる姿は今だに忘れることができない。
 つい昔話を書いて仕舞ってお許し下さい。私が理事長をしている当研究所はかつて雪の問題を採り上げていた。雪と氷の祭典を新潟県の十日町や長野県の大町市でも企画に参加し、十日町には私も出かけた。シンポジウムに出席し、挨拶をしたが、前の晩、雪を固めて作ったステージで怪しいまでに美しい光の中で少年隊が繰り展げた歌と踊りは今でも眼に焼きついている。
 昔から雪は邪魔者とされていた。しかし、この雪と親しみ、利用し、活用し、人間の世界に役立たせようという試みが続けられている。親雪、克雪、利雪といった言葉もある。
 スキーやスノーボードなどは親雪の類いである。雪がなくてはなり立たない。最近、北海道のニセコあたりに雪を見ないニュージーランドなどの人達が沢山押しかけて、そのためのマンションも売られている。地価が暴騰しているという新聞の記事も見た。札幌の雪祭り。三年前に私も出かけたが、雪と氷の像が様々な光を浴びて幻想的な世界を現出しているのに感動して、写真を千枚ほど撮った。
 かつて、京都の修学院離宮を参観した際、氷室を見せられた。冬の間、雪を固めて室で貯え、いわば冷蔵庫として利用するという話で、昔の人も智慧があったのだなと思った。
 そうだ、私は、まだ三、四才の頃、新潟県の高田(今の上越市)に住んでいた。父の勤務の関係である。日本のスキーの発祥の地と云われ、秩父宮殿下もスキーをされたという。父が一本のストックで辷っている写真もあったような気がする。冬、雪が積ると二階の窓から出入りした記憶がある。毎朝、大人が何人もカンジキを履いて新雪を踏み固めていた、子供の通学路を作るためであった。隣りの家に行くのに雁木の下の道を通ったこともかすかに覚えている。
 利雪と言えば、スノーダムもある。ダムの水は堰堤以上には溜められないが、雪は高く積むこともできる。そして、雪が解けるにつれて水が流れ、それを利用できれば、甚だ効率的ではないか、というので、国交省あたりも検討して、調査に取り組み山間部で試験を行ったことがあると聞いている。
 雪はまだまだ人間の暮しには障害物だが、こうして利雪が進めば、それこそ共生もできるように思うが、読者諸賢如何に。
(相沢英之)