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活動報告
大蔵週報 平成18年1月20日(金) 地声寸言『閣僚の復活折衝は不要か』

 平成十八年度の予算は、二十日の財務省原案の閣議附議後、僅か二日で大臣折衝も終え、二十三日計数整理後、二十四日には閣議決定された。いわゆる復活折衝の期間は僅か二日間であり、十日もかかった昔に較べれば、本当に短くなった。能率的でいいという声がある反面、もう形式的な大臣折衝は不要ではないか、と現職大臣が口にするようになった(二十二日、小池環境相)。
 昔は(といっても、私が主計局で主査になったのが昭和二十四年九月で、主計局長から事務次官になったのが昭和四十八年七月である)大蔵原案の閣議附議から閣議決定に到るまで一週間から十日かかったと記憶している。年末に大蔵原案閣議附議後年内に纏まらないので年を越したこともあった。それは、昭和三十五年度予算であって、三十四年十二月二十三日に大蔵原案が閣議に附議されたが、主として治山治水長期計画の規模、三十四年度実施した減税によって生ずる地方財源の補てん問題などでもめ、これらの問題の調整のため、概算案の閣議決定は年を越して三十五年の一月十三日となった。その間、二十二日間に及んでいる。
 短くなったのには、いろいろ原因があるが、大臣折衝そのものも形式化して来ているので、不要論まで飛び出している。しかし、本当にそれでいいのか、という反論もある。
 昔は、大蔵原案を閣議に附議すると同時に各省庁にいわゆる内示を行ない、課長レベル、局長レベル、次官レベルと復活折衝を積み重ね、最後の大臣折衝で残された重要事項を決定し、計数整理の後、概算閣議決定を行なうという段取りであった。
 パソコンやコピー機どころか、ガリ版が幅を効かしていた頃は、各省庁に内示をするにも、各事項ごとにいわゆる三段表に基づいて細かい数字を読み上げ、それを各省庁の予算担当の職員が書きとるというような作業を行なっていた。その内示の作業が朝から晩まで延々と続き、各省庁の内示の数字を持って帰るのは夜、それから各局課に傳達、やがて復活折衝という過程を経ていたから本当に大作業であった。写し違いもあったし、抜けたりしたこともあった。しかも、二十年代は標準予算の制度もなかったので、細かい事務費についても目に至るまで一々査定、内示、復活という作業を繰り返していた。
 昭和二十年代までは、予算の各係が局議査定額の一部を留保して各省庁への内示を行なうようなことはなく、局議査定額をそのまま内示していた。復活要求に対しては、又査定案を作って局議にかけ、その決定額を内示するというような過程をとっていたので、復活局議の順番待ちという状態もあった。
 しかし、その後、だんだん合理化されたというのか、要領が良くなったというのか、ことに三十年代後半以降の予算膨脹期には、各主査とも局議査定額から一部を留保し、各省庁に内示をする、主計官も然るべく財源をポケットにして置くという形になり、局議査定額の範囲内で二次、三次と復活折衝をやるようになった。
 そして、次第に話が煮詰まってくると、この事項は各省の局長折衝(相手は主計官)でこの事項は各項の次官折衝(相手は主計局次長)という具合に振り分けられ、とくに大事なもの、将来なお問題となるものは大臣折衝という仕分けをするようになった。
 それも、以前は、本当に大臣同士の折衝に委ねられることも少なくなく、事務当局同士の話し合いの結果と違うことを各省大臣が発言し、それで話しが違う決定がなされ、あとで事務方で殴り合いといならんばかりの騒動となったこともあった。
 昭和三十年代は、いわゆる三K予算が片付かなければ予算編成はできないといわれた。三Kとは交付税、健保、国鉄であった。従って、この三者については、大蔵原案の閣議附議前に事務当局は言うまでもなく、再三、再四大臣折衝を行ない、話を煮詰め、手打ちをしておかなければならなかった。
 もちろん、重要問題はこの三者に限らない。道路、河川、港湾などの公共事業の長期計画や防衛力整備計画なども事前に大臣折衝まで行なわれていた。
 確かにそのように財務省原案の閣議附議以前に主な問題点の解決を図っておくことは、悪いことではなく、むしろ当然のことかもしれない。
 ただ、そのように事を運んで行けば、大臣折衝が形骸化することも当り前かもしれない。さはさりながら、重要な事項については、今後の取扱いも含めて、大臣間の折衝で決めておいた方がいい場合も少なくない。
 ましてや、今は、昔と違って財務省原案を閣議にかける前に事実上、事務当局間でどんどん話合いを進めて行くようになっているので、予算の最終決定前のいわゆる大臣折衝とは別にして、大臣間の折衝で話を詰めることも結構だし、事務当局間のお膳立てが気にくわない大臣が大臣折衝で発言、要求することがあっても、それはそれで一向差支えないのではないか。
 財務省原案から概算閣議決定までの時間が著しく短縮されたことの一つの原因は、高度成長時代と違って、予算の規模が膨脹どころか、実質縮小されていることによるものであるし、又、この赤字財政のもと予算の持つ役割りが小さくなってきていることにも関係すると思われる。
 いずれにしても、最後に責任を持って貰わなければならないのは各省大臣であるから、やはり各省政策の中心課題である予算の編成へは大臣折衝は不可欠であると考えるが、諸賢如何に思われるか。