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活動報告
大蔵週報 平成17年11月11日(金) 地声寸言『後藤田正晴氏を偲ぶ』

 この欄を書き始めてから十数年が経つが、故人を偲ぶ文章を綴ったのは、今回が初めてである。長年の友人であっただけではない、彼の考え方について共鳴するところが少なくなかっただけに、一言どうしても記しておきたくてペンを執った。
 後藤田氏は昭和十四年、私より四期早く東大を出て、自治省へ入省したが、主として中国で戦争の体験をした。私も時期は遅れたが同じ中支で戦火を浴びて来た。
 戦後生れが今や日本人の人口の七十五%を占めるようになって、戦争の災禍を知らない人が圧倒的に多くなって来た。もちろん、活字やフィルム、ヴィデオなどで大部分の人は知っていると思うが、智識として知るのと体験するのとでは全く大違いである。
 戦争は悲惨なものである。勝っても、負けても、人は殺され、物は破壊され、焼き盡される。いくら戦争の理非曲直を強調しても、戦争の災禍を正当化できるものではない。
 それにしても、人は何故殺し合いをしなければならないのだろうか。それも、国が違う、民族が違うという場合だけでなく、同じ国民、同じ民族同志でも殺戮を繰り返して来た。
 人間同志でも口喧嘩でケリがつかなければ、結局、腕力に訴え、果は殺し合いにまでなることがある。国民も民族も同様であるという人もいる。
 よその国の例を引くまでもない。徳川三〇〇年の平和の時代を迎えるまでは、絶えず内戦は続けられていた。何万、何十万の武士(武士と言えぬ武装農民などを含めて)が民衆を捲き込んで激しい戦いを繰り返していた。同じ日本人同志である。明治十年の西南戦争を最後として内戦は終焉を告げたが、日清、日露、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と戦争は続き、昭和二十年八月十五日の無条件降伏をもって、日本は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を「永久に」放棄し、(日本国憲法第九条第一項。)平和国家を宣言して今日に到っている。
 後藤田さんも戦争の悲惨さを身をもって痛切に知っているが故に、政界に出てからも、湾岸戦争の際の掃海艇の派遣を身をもって反対するなど、その行動において、再び日本を戦禍の渦中に捲き込まれる怖れのある行動に反対をして来た。
 日米の国の絆は、日本の平和と安全を守るために崩してはならないことは無論であるが、といっても、ただズルズルと海外における軍事行動に連れ込まれることは決してあってはならない、と彼は考えていたと思う。それは、いわば戦争の体験から滲み出た強い意思であったろう。
 私は、陸軍の主計将校として中支で米空軍の銃爆撃の雨を浴びた一年余、軍が北鮮に移駐したため、戦後ソ連に三年抑留されるという辛い体験をした。
 昭和二十三年八月十四日、舞鶴に上陸し、間もなく大蔵省を訪れた時に、名簿に「行方不明」と赤字で記されていた。六年間の軍務の終熄は、日本の敗戦から三年も経っていた。
 押されて、全国のソ連抑留者の会(全抑協)の会長を三十有余年つとめているが、念願の抑留間強制労働に対する補償要求は、昭和三十一年の日ソ共同宣言第六条の請求権相互放棄の条項に阻れて、未だに実現の曙光も見えない。戦後六十年、年々歳々激減して行く会員に対して焦燥の念を深くして行くのみである。
 災害は忘れた頃にやって来るという言葉があるが、戦争は、戦争の悲惨さを知らない人達が成人となり、大きくなった頃に再びやってくるとよく言われる。
 戦争を身をもって知っている後藤田さんが亡くなったことは、そういう意味でも大へん残念なことであった。
 も一つ、後藤田さんは、「政から民へ」という言葉が至上の命題のように語られ、郵政民営化を中心として、抵抗すべからざる大きな流れのようになっている現状に対して、いわば頂門の一針として官がなすべきこと、民に委すべきこととの間にいわば一線を画すべきことを強く主張していた。
 これは大事なことだと思う。何でも彼でも民営化がいいということはないことは明らかであって、外交や国防以外にも、官として果すべき役割がある。とくに強者の論理で社会的弱者が片づけられ、世の不公平の是正が果されないような状態が生じていいか。そこをよく考えなければならないことではないか。
 小さな政府は確かに国民の税負担の観点からも必要であり、民の活性化のためには国による規範をできるだけ無くして行くことが必要であるが、といって、何でも野放図に民に委せていいものではない。
 官から民への大きなう敢然として官の存在の必要性を説くことは逆説にも似ているが、私は、後藤田さんの深い洞察力と判断に心から敬意を表していた。
 今や、彼はいない。官界、政界を通じて永年親しくさせていただいた後藤田さんのご冥福を祈るや切である。読者諸賢如何に思われるや。