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活動報告
大蔵週報 平成16年3月18日(金) 地声寸言『ゴミ対策を考えて(ニ)』

 ゴミの問題は本当に厄介である。
 かつて、私は、廃棄物管路流通システムの導入を促進するために議員連盟を作り、その会長として、モデルプラントの助成措置の拡大に努力した。
 筑波や千里などのニュータウンは導入し易いが、既成都市はなかなか困難なことは、外国でも同様であった。
 それに何よりも、この方式では廃棄物の分別が困難であって、とくに圧縮している分だけ困難さが増すという欠陥があった。又、管の内部にハリ着いた廃棄物の除去も骨だし、又、何を抛りこまれてもわからないという難点もあった。
 リサイクルを徹底させようと思えば、廃棄物の分別を細かく、かつ、やかましくしなければならない。かつて、私は、米子市の分別表を見たが、二十三だかに分けることになっていた。これは、専業主婦のいるところでもなかなか大へんだなと思ったし、第一、そこまで細かくすると、具体的なものをどこに分類するのか迷うことも多いし、かりに出来たとしても、毎日、それだけの数の梱包か袋でも用意しておく必要があるとなったら、本当にうまくできるのだろうか、と思った。
 それだけの手間を市民に強いる必要があるのだろうか、一見して疑問に思う。独りもんの私の場合は、せいぜい燃えるゴミ、燃えないゴミ、ペットボトル、空かんぐらいの分類ならできないこともないが、それとても、空かんが鉄なのか、アルミなのかもよくみないとハッキリしないこともあった。
 デュッセルドルフで見学した工場では、階段状に組み立てた機械の間をゴミが降りて行くに従って分類されて行く仕掛けであったが、これとても充分自信を持って薦められるような程度にはできていなかった。
 結局、ゴミをリサイクルするには、出す段階において、一般の人が容易にできる程度に分別して出して貰うとか、出て来たゴミを手間を食うが人海戦術で分別するのが、一番現実的な方法ではないか、と思っている。何とも情けない結論ではないか、と非難されると思うが、何か別にいい方法があったら教えて貰いたい。ただ、その前に、できるだけゴミを少なくする努力は続けなければならない。
 例えば、包装紙。前から言われているとおり、日本は体裁にこだわるせいか、外国に比べて、いかにも包装が過剰である。お土産物などに至っては、中味よりも包装の方が多いくらいである。それに上げ底、昔から日本の得意なところである。
 取扱いの便宜、中味の保全(果物など)を考えれば、ムリからぬところがあるが、それにしても、もそっと何とかならないかなと思う。包装用品を作ったり、売ったりしているところには、いささかお気の毒だが、この際、も一度、思い切って包装を減らす運動を展開したらどうか。
 スーパーやコンビニでもそうだ。出口で品物一つ一つをビニールの袋に入れて、それを又袋に入れる。丁寧なのは結構だが、そこまでしなくたって、どうせ近くの家までもてばいいのだから、思い切って簡素化したらどうか。手間だってバカにならない。
 あとは、前にも一寸述べたことがあるかと思うが、古新聞などは泥棒が多いと言って、罰金まで課して防止しようとしていることを聞く。何てバカなことをするのか、なと思う。どうせ要らないで棄てたものなのだから、欲しい人にはどんどん持っていって貰ったら、それだけ自治体の清掃の手間が省けるではないか。タダでゴミが片づくなら、こんないいことはないぐらいに考えたらどうか。古新聞以外もそうである。
 家具や家電製品も日を決め、場所を定めて持ってこさせたらいい。そのなかで、使えそうなものがあったら、住民に勝手に持って行かせたらいい。ある人にはゴミでも、他の人が欲しいものはある。そのリサイクルは金が伴わないだけ明朗でいい。
 かつて、そういう家具類を拾い集めて再生して売っている人のことを聞いたが、それも結構じゃないか、と思った。余り褒めるような仕事でもないと思うが、別にケナすほどのこともない。考えてみれば、世の中の役に立つ商売である。
 私ども学生の頃は、神田などの古本屋によく行った。本郷、早稲田、三田なども歩いた。古本屋は馴染みが多いが、ただ一つの注意は、誰が持っていたが、わからないことであった。したがって、時々天気の良い日には本を並べて虫干しをした。
 リサイクル品も使う前によく拭くとか、その程度の注意はしなければならないかもしれない。もっとも、その程度は気休めに過ぎないだろうし、大したことではないと思うが。
 いずれにしても、ゴミの処理は、もっともっと真剣に考えなければならないが、諸兄如何。